当たり年とハズレ年
今年は花梨が大豊作だった。
昨年は柿が大豊作だったが、今年はあまり成らなかった。
どちらも植えっぱなしで、肥料とか特にくれてないので、なればなったで嬉しいというだけで、いわゆる植えっぱなしなのだが、だんだんと年期が入り、成長してくると、はじめは数個しかならなかった実が、何十となるから、ついつい期待するようになってきた。
人は、期待する。
期待しなければ、裏切られたり、がっかりすることはない。
なので、期待してはいけない。
結果が良くても悪くても、よくがんばったな、とほめてあげたい。
しかし、まったく頑張らない、遊んでばかり、逃げてばかり、というのが目に余る場合、そういうわけにはいかない。
果実の話から、人の話になってしまった。
逃げてばかりいるように見えても、それなりに悩んでいるのだろうし、そういう生き方しか選べないのだから、お気の毒様、と、思うようにしたい。
叱らず、何とかしてやらねば、とも思ったりもする。
どうしたらいいのかと、アドラー心理学を聴きまくったりもした。
私は、本を聴くから、聴きまくるであっている。書き損じではない。
アドラーは、叱るのもダメ、同情したり、見下すのもだめだという。
あなたを尊敬している、という姿勢が大切だという。
逃げてばかりいて、遊んでばかりで何もしない人を、どうやって尊敬したらいいのか、私にはまだわからない。
いや、よく遊ぶね。
それだけ遊ぶことだけに徹底できれば、気持ちいいね。
と、ほめるのは、褒め殺しだ。
ひとは、叱られるのは嫌なことで、ほめられるのを好む。
会社で社長とか上司に褒められるとうれしいものだ。
しかし、アドラーは、違うという。
ひとを褒めるのは、見下しているからだと。
自分が上位にいることが、ほめるという行為を生むのだと。
尊敬しないといけない、
部下は上司を、社長は社員を、お互いに尊敬すること。
親は子を、子は親を尊敬しなければいけない。
それならわかる、正しい考え方に違いない。
ただ、遊んでばかりで、逃げているようにしか見えない子に対して、尊敬の念が芽生えないのはどうしたらよいのか。
子への理解が足りていないということであれば、私の至らぬところであるのだが。
豊作のカリンは、まことに香しい。かぐわしい。芳しい。
たった一個のカリンが部屋にポツンとあるだけで、上級な空間に変身させる。
そんなカリンの豊作を見ながら、アドラーの教えを考えれば、いつもなら、ストレスに苛まれるが、カリンのおかげで、セレトニンに満たされるかもしれない。
また、タイトルと関係ない話になってしまった。