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神は死んだはずなのに

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神は死んだ、とニーチェが諭してから137年。まだそんなもんか。だったらしょうがないかもしれないが、聖フランシスコ教皇が来日し、話題となっている。

ちなみにローマ法王というのが普通なのに、なぜ今回の報道では教皇というのか、というと、法王も教皇も一緒らしい。ただ、出家した上皇のことを法王というから、まぜこぜにならによう、ローマは教皇と呼ぶようにしたということだ。どうでもよい。

また、今朝の羽鳥慎一モーニングショーで私のお気に入りの玉川徹が「サンフランシスコ」も聖フランシスコと関係あるのか?とゲストコメンテーターに質問したところ、答えられなかったが、Googleさんによると、フランシスコ会の修道士が町の名を聖フランシスコにあやかって名付けたということだった。

それはともかく、教皇はロックを超えて大人気とか、やかましい。

広島を訪問してくれて、福島出身の学生にも会ってくれて、原爆や原発を純粋に非難してくれるのは、とてもありがたいことだが、聖人なのだから、それくらい当然だ。

いろいろな関係各位に気を使わないといけない政治家とは訳が違う。

日本人は宗教にうとい。

というよりも、私の場合、嫌いだ。大嫌いだ。

寺社仏閣を訪ね、厳かな気に心身を包まれるのは贅沢な気分であるが、キリスト教がアレルギー反応を起こす。

神の存在は否定しない。

キリスト教の信者が、「今、信者になった」という境界点は、「イエスの復活を信じた」時だそうだ。

自分は宇宙人もいると思うし、この世に「絶対に」ということは「ない」、と思う方だから、イエスという「たぐいまれなる超能力者か、宇宙人」が奇蹟の数々を起こし、この世に存在してこと、それが「神」と祀られるようになったこと、あってもおかしくないし、ないよりは、あったと思えるほうが、楽しい、と感じる。

しかし、しかしだよ、それを押し付ける、というのは、NGだろう。

ましてや、信者になれない人間を「いくら言っても理解できない」みたいな扱いをされると、「クリスチャンという人種は、自分たちを非信者よりも上等な人間と思っていて、非信者のことを哀れな奴だと思っている」気がするのである。

宗教観だけでなく、倫理観においてもそうだ。

物事には必ず、裏と表があって、どちらが正しいとは言い切れない。

それぞれの生き方が違うように、違う考えも認め合いたいものだ。

ダイバーシティ、多様性の時代だからね。

だからといってはなんだが、教皇フィーバーは「はてな」だけど、彼のことは嫌いじゃないよ。

いい仕事してるね、と中島誠之助じゃないが、思うよ。