自治会って必要なの?生贄投票?
自治会とは、そもそも何だろう。
「ポツンと一軒家」であれば、そもそも一人ボッチなのだから、組織が作れない。
2軒、3軒と寄り合い、住み始めると、ある程度の規模から、ムラ社会が生まれ、
・ひとりひとりでバラバラでやってるより、みんなでやると効率いいこととか、
・ひとりではできないけど、みんなが集まることで初めてできることとか
を、実現させるために、一定のルールの下で一緒にやっていこう、みたいな、自然発生的なものが原始であると想像する。
しかし、実際は、そうではないようで、市町村が一戸、一戸に手厚くサービスを提供するのは困難なので、自治会を組織運営してもらうことで、自治会を通じて、行政運営している、というのが実態のようである。
ということは、自治会があることで、はじめて行政サービスが受けられ、なければ困ったことになってしまう、はずである。
今回に限らず、直近数年は、次の区長をやれる者が一人もいないのであれば、自治会を解散したらいいのではないか?という、「仕方ないから諦める派」や「そもそも不要派」の意見も出てきている。
自分は「そもそも不要なのでは?」の方である。
なぜそう思うのかというと、自治会がなくなっても、普通に生きていける、と思うからである。
なくなったら、どんな支障が出てくるのだろう。
今回の「次期組長選考」にあたって、執行部の出した提案は、
・執行部の選んだこの14名の中から、次期執行部4名を選んでもらう
・選ばれた4名で相談の上、区長を決めてもらう
・4名の選出が、話し合いで決められない場合には、投票をしてもらう
というものである。
すでに参加者は、全員、
・仕事があるので今はまだ区長をできる状態にない、とか
・我が家は要介護、要支援の環境であり、無理
とか、それなりの理由があり、「引き受け不能」の表明をしている。
それにもかかわらず、無理やり投票するというのは、「不幸の手紙」の押し付けのような状況になりかねない。
前回2年前の「次期組長選考」時にも同様の経過を辿ったそうで、結局参加者は全員白票を投じ、執行部4名による指名で4名が決められたそうだ。
これでいいのか?
と非常に疑問に思う。
市街地の自治会では、区長をやりたい人が沢山いて、選挙で選んでいるところもあるという。
一方では、「不幸の手紙」を押し付けられた後、
・家庭の事情で区長の仕事はできない
・辞退も許してもらえない
という状況に陥り、自治会を脱会し、引っ越した、とか、自殺した、とか、悲惨な話も耳にした。
今回の「選考会」でも、もし自分が選ばれるようなことになった場合には、自治会を脱会させていただく、と事前に申し出る者が多数いた。
現区長は、「日本は民主主義」だから最終的には「多数決」に従ってもらうしかない、という。
この理論で強制採決に持っていこうとするのは、正しいのか?
こういう場合、「誰かがやらなければならないのだから、仕方ない」という「正論」らしいことをいうものが多数いる。
しかし、である。
原始社会で、年に一人の「いけにえ」が選ばれた時代があったという。
それはムラの掟であるから「仕方ない」と、従っていたという。
現代のイジメも同じである。
誰かが、「なぜこういう仕組みでなければならないのか」と異議を唱え、「その通り」と賛同を示し、「代案を一緒に考えよう」という方向に、話をもっていかなければ、いつまでたっても「不幸の手紙」の押し付け合いは終わらず、「いけにえ」をつくってしまう。
このように私は感じたのだけれど、ベースとなる「自治会とはそもそも何か?」という部分が知識不足であるので、「本当に必要ないか」とか「代替策は」という提案が現時点ではできない。
結局、昨夜の「選考会」は強制採決には至らず、3週間後、再度開催されることとなった。次回選考会でも「区長を話し合いで決められない」場合には、投票をすることになる、と、「それしか手がない」的な物言いで、会議は終了した。
次回この続きをぐずぐずと続ける気はないので、次回までに、市に出向き、
・市が「自治会」に期待すること、役割は何か
・市の課題認識
・このようなケースについての対処法
を聞いてみたいと思っている。
そうやってベースを造ったうえで、
・自治会の解散
・自治会への参加、改革
のいずれかを提案したいと考えている。
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